「沈黙」を観て思ったこと

マーティン・スコセッシ監督「沈黙」を観て2週間程経ちましたが、自分の中でいろいろとまとまってきたので、

せっかくなので記録しておきたいと思います。

一番思ったのは、

「自分は観念的な提示に対してあまり感情的になれない」

ということでしょうか。つまり、漠然とした、概念的な問題を提示されても、想像力を駆使できない、

自分の中で具体化できない、という欠点(特徴?)が自分にはあると思いました。

この作品を観て、今まさに起こっている、アメリカの移民統制を思い起こされた方も多数いらっしゃるようなのですが、

恥ずかしながらわたしは、まったくそこまで考えが及びませんでした。

この映画を観てとにかく思ったのは、

「自分は日本寄りの人間だ。」ということ。

お奉行様が作中で、「キリスト教布教は、”醜女の深情け”である」と言います。

“醜女の深情け”というと源氏物語の末摘花くらいしか思い当たらないわけですが、

キリスト教は”醜女”ではありません。

でも、通辞の人が言う、「押し売りだ」はそうかもしれない、と思います。

キリスト教の司教が、日本を見下していたかもしれない、というのも、そうかもしれない、と思います。

だからといって、ならば弾圧してもいいのか、となれば、もちろんだめなわけですが、

問題は宗教ではなく、異なる宗教に逃れたいと思うほどに民衆を追い詰めた施政者たちなのであって、

キリスト教は・・とか、仏教は・・とかを語ることにあまり意味はないと感じました。

もうひとつ強く思ったのは、原作との相違点について。

まずひとつめは、ジュアン(だったかな)という若者が「斬られる」シーンが、映画では首を斬られていたこと

(原作では、「斬られた」としか書かれていない)

当時の処刑についてはまたまたまったく詳しくはないですが、

不意をつかれて斬られた場合、首を落とすのだろうか、と不思議に思いました。

不必要にショッキングなシーンになっているような気がしました。

ふたつめは、フェレイラ司教が棄教した理由が、「穴吊りに屈した」みたいにとられても無理はないようになっていたこと。

確かに、原作でも、ちょこっと言い訳ぽい言い方に感じましたが、

フェレイラさんが少し気の毒に思いました・・

ほとんどにおいて原作に忠実なので、逆にこの2つの点が気になったのでした。

ロドリゴさんは何回も何回も、「神は何故沈黙されているのか」「よもや神は実在しないのでは?」と問い、

恐怖に打ち震えるのですが、

逆に、「神は真実存在されている」、「神様に自分たちは見られているのだ」と感じて、

日々生きている人たちがみんなならば、

人の世はここまで堕落しなかったのでは、と思い、大いなる矛盾を感じるのでした。

そして、キチジローとユダをなぞらえる箇所も何度も出てきますが、

ユダは実際にキリストと相対しているのに対して、キチジローはただ単に、「司教様に告解して懺悔すること」で

自分の中の罪悪感を軽くしようとしている(だけ)ので、まったく違うのでは・・と思いました。

いちばん共感したのは、最後の最後に、踏み絵の中の神様が「踏みなさい。その痛みを我は受け容れましょう」

と言ったこと。

わたしにとっての神様像はまさにそうですが、キリスト教では違うらしいということで、

とにかくカルチャーギャップだらけの鑑賞となったのでした。

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